関連企画

パネルトーク1 福岡の歴史を繋ぐ ~私の好きな劇場~

演劇祭関連企画第1弾! 現在を軸とした追憶のパネルトーク
福岡の劇場をキーワードに、過去40年を振り返るパネルトークです。
福岡で演劇活動を行っている演劇関係者をパネリストとして迎え、思い入れのある劇場について語り合いました。
当日のトークの内容を公開しています。

6月19日
17:00 ~ 20:30
第1部:劇団設立10年以内・前後の世代によるパネルトーク
>>議事録
第2部:劇団設立10年以上の世代によるパネルトーク
>>議事録
第3部:劇団設立20年以上の世代によるパネルトーク
>>議事録
6月20日
17:00 ~ 19:00
福岡の歴史をつなぐパネルトーク
>>議事録

概要レポート

6月19日 17:00 ~ 20:30 | 世代別パネルトーク
第3部:劇団設立20年以上の世代によるパネルトーク

時間帯
19:30 ~ 20:30
パネリスト
石川蛍 (劇団夢工房)、佐藤順一 (演戯集団ばぁくう)、こすぎきょうへい (劇団クレイジーボーイズ)
司会
柴山麻妃
1・2部と違い、自分達の劇場を持って活動していた方々によるパネルトークです。
佐藤さんはアトリエ戯座という劇場を運営していらっしゃいました。平尾大名と場所を移し、今は六本松に引っ越して、試演会や朗読の発表会などの形で地域とつながっていきながら、舞台にあがるチャンスをより与えられる場にしたい、とのこと。

こすぎさんは舞鶴Show会(劇団クレイジーボーイズの前身)という劇団で活動していた時に、シアターポケットという劇場を作りました。

石川さんは大学時代に演劇にふれ、その後劇団夢工房を結成。ランキンチャペル→中央公民館(太郎劇場)→喫茶店 人形といった、劇場や劇場以外の場所での公演を経て、 2DKの自宅を劇場として公演し、その後劇場夢工房をつくったそうです。 柴山:この第三部は劇団設立20年以上の世代によるパネルトークということで、ずいぶん顔ぶれが今までのかたがたとは違い、いろいろ経験されている方が3人並んでられています。今回いままでの歴史をうかがうということが中心になるのではないかなと思います。

この3人の先輩がたは、自分たちの劇団の劇場を持ってらしたというのが、第1部・第2部との大きな相違点ではないでしょうか。
さきほど仲谷さんが、大金持ちに好きな劇場をつくってもらってということでまとめられてました。大金持ちかどうかちょっとわかりませんが、3人とも自分たちの劇場をお持ちだったと。 佐藤さんは現在もお持ちですけれども。そういった点から話を進めていきたいと思います。

佐藤:大名でやってたんですけれど、去年の10月に六本松に引越しまして。ぐっとスペースも狭くなりまして、今は、芝居の上演というよりも、お稽古場としての使い方と、あとは試演会・朗読の発表という形で、私が今ソロでやっております。
だからそういう形で少しずつ地域と繋がっていきながら、演じるといいましょうか、舞台に乗るチャンスを、より身近に与えられる場になればいいなというふうに思っております。
僕ら作ったときから、稽古場と発表の場をなんとか自前で持ちたいな、というのが、目標でもあったわけですね、表現の中で。
いつでも時間の制約なしに稽古ができる。稽古の準備にも、荷物を持って行ったり持って帰ったりとか、そういうロスもはぶけるし、どうしても今お客さんに見せる必要があるのではないか、見せたいなーと思ったときに、自分の発表の場がすぐそこにある、というような環境がベストじゃなかろうかと。
表現をしていくならば、まず粗末であっても、なんとかお客さまを招いて、演じる側と観る側が一緒にいて、それを見せる・共有するものがひとつある、その環境づくりができたらいいなあと思って、ですね。


柴山:佐藤さんは、ばぁくうをつくられたときからいきなりもう稽古場を持たれたんですか?


佐藤:いや、やっぱりね、最初はみなさんも覚えがあったと思いますが、1Kでしたね。リビングが稽古場でした。僕は別役の芝居から入りましたから。セリフ劇として発表が・・・ビブレホールだったかな、ビブレホールで最初の発表をやったと思います。当時はビブレの上のほうにあったんですけど、今もあるんですかね?


柴山:今もあります。


佐藤:その当時ね、音楽ばっかりやってて楽屋はねー、横道坊主(おーどぼーず)とかね、楽屋の落書きがすごかったですよ。ロック歌手とかそういう?


柴山:なんとなくイメージとして強かったですよね。


佐藤:そうそう。でね、なんとか芝居で使わしてくんないかっていう話をしてて、じゃあ試しにやってみようかというのが最初だったんですね。


柴山:なるほど。また後でお伺いするとして。こすぎさん、シアターポケットは何年ぐらいに?


こすぎ:平成2年ですね。


柴山:平成2年。1990年ですかね。


こすぎ:そうですね。それから、えっと、立ち退きにあったのが平成18年。


柴山:6年前?


こすぎ:そのくらいですね。


柴山:で、それは、舞鶴Show会・・・クレイジーボーイズの前身の。


こすぎ:そうですね。


柴山:舞鶴Show会のときに、すぐもう持とうと思って?


こすぎ:とにかく稽古場がなかった。今なんかはけっこう、どこでも稽古出来たりとか。
市民センター行くと2回分とるためには1回分消費しなければ、2回分の予約はできないとかあって。今日は博多か明日は千代か、とか。とにかくそれがイヤで。こんなことやってたら絶対続かないと。当然サラリーマンと2足のわらじですから。誰が予約に行けるのかとか。だから劇場がほしいというよりも稽古場がほしいと。


柴山:なるほど。


こすぎ:で、どうせ維持管理するのに金かかるから、そこで公演も打てるぐらいだったいいか、ということで、見つけたのが清川で。


柴山:さっきから何度も話に出てたシアターポケットですね。 じゃあ、石川さんにもお話を、石川さま・・・(場内笑)。


石川:えー。ふるーい話をします。昭和33年、1958年。私はこの西南学院大学におってね、そっから芝居が始まったんですよ。あの頃はね、ランキンチャペルっちゅうのがあって、そこでやってたんです。
それからね、皆様おそらくだーれも知らないと思うんだけど、中央公民館、別名たろう劇場っつうのがね、あったんですよ。で、そこで芝居をやってたんですよ。
演劇っつーのはすごいなーって言うのがひとつの印象です。
それからね、1959年。昭和34年ですね。電気ホールで芝居やったんですよ。そのころは、KBC放送劇団、NHK放送劇団、RKB放送劇団ってのがあったんです。で、そのときに一緒にやったんです。私はもうのぼせあがってね、すげーなーって思って。そのころずーっとやってた人たちが今でもね、東京で活躍してるんです。そういうことがあったんですよ。だからねー、やっぱりね、私もプロになりたいなーっつうのが。
それでね、1960年、昭和35年かな。人形という喫茶店があったんですよ。で、そこでやりました。それからね、2DK劇場っていって薬院でやったんです。それはあたしの住まいですよ。そしたらね、下からね、ものすごく苦情が来まして。もーね、なーんだーこりゃーってのがどんどんどんどんくるでしょ、で、あーこれまずいなーちゅうのが。
それからね・・・荒木ビルっつうとこがあったんです。それは、歯医者さんの2階で。
それがあって、大名街ビル、スナックアドリブ、テアトルハカタ小劇場、小劇場夢工房、設立。そんなぐあいにね、ずーっとやってきたんです。
それからね、少年文化会館。市民会館小劇場、TNCパヴェリアホール、百道パレス、博多座ね、ずーっとやったんですよ。ほいでね、今日に至ってるんです。


柴山:西南大のチャペルからやって、たろう劇場ってお話ずーっと続けてらして、それで、あの夢工房を持たれたわけですけども、その後に、今度どーんと大っきな博多座でやられて、今まで夢工房の小っちゃい劇場でやられて、大きい劇場でやると、いかがでした?その、お芝居の質も違うのは当然なんですけれども。


石川:忘れたけどね。夢工房劇場をつくったんですよ。倉庫でね、家賃30万ですよ。もーびっくりしてね、これはもうとても無理だと思って。でもね、なーんとか頑張ろうと思ってねぇ、私が一人で改造して劇場をつくったんですよ。ほんでね、ほいであの、今売り出した銀之丞とかが来てね、うわーっとなってね、それからだ、神田紅とか、あのー、永六輔とかね、いっぱい呼んでね、最初はすごいやったんです。ところがだんだんだんだん寂れてね、で、結局やっぱりその、立ち行かなくなった。


柴山:んー。


石川:借り手もあったんですよ。で、僕が、ものすごく後悔してるのはね、みなさんと一緒にアレしたらよかったなあーと思うんですよ。


柴山:みなさんというのは?


石川:他の劇団のみなさんとね、ちょっとずつ家賃を払ってねなんとかやればよかった。


柴山:いろんな劇団と一緒に共有するということですか?


石川:そうそう、そうそう。それをね、僕がね、なんか・・・うまくできなかったのね。それはもうすごい後悔してるけどね。


柴山:んー。


石川:でもね、なんかねー、それもなんか・・・なんかねえ、難しくてねえ。
結局、15年で、閉じたんですよ。15年。その間に東京公演したりね、いろいろありました。
でもみなさん、30万毎月払うって、とてもじゃないけどね。
佐藤くんに、ずーっと今でも言われるけど、そのとき僕は、機嫌が悪くてね。どうしてあんなだったのか、今わかったと。ほんとね、もうイヤんなるから。家賃を払うためにだけ芝居やってるような、ね。それはおかしい。だからね、ほんと芝居のね、脚本とか何とかじゃない、ほんと、冗談じゃない、ただ、その30万をね、払うために。それを佐藤くんがね、ずーっと見てたわけ。
で、今、彼がね、そういう目に遭ってる(場内笑)。
それでね、やっとわかったみたい。と、僕は思いますよ。


柴山:いかがですか?


石川:それで、その・・劇場を閉じてね、1997年に閉じたんです。


柴山:そうですね・・・


石川:で、それから・・・


佐藤:身軽になりましたか?


石川:もーのすごくねー!


佐藤:30万から開放された?


石川:今ね、ほーんとにね、ローンが楽でね。今はね、ふくふくホールでずっとやってる。
借り賃も安いしね、もう・・・安泰です。だから佐藤くんもね、やっぱね、あんなことせんほうがいい(場内笑い)。


佐藤:せっかく今日一部でねえ、早く持ちたいなあっていう話をしてたのに。


石川:おうおう、やっぱ自分でね、小屋を持とうとかね、思わんほうがいい。絶対もたん。だってよ、15年だよ。だからね、僕は、今、ちょっと思うけどね、あんまりねー、われがわれがと思わんね。今いっぱいあるでしょう。ふくふくホールもあるし。


柴山:ここ、ぽんプラザホールもそうですね。


石川:ねえ。だからそういうふうな、芝居やったほうが、いいんじゃないでしょうか。考え方の違いだけどね。


柴山:こすぎさんいかがですか?こすぎさんもシアターポケットの運営をされていましたが。


こすぎ:いやー・・・よくわかりますねえ。えへへ。私が借りてたのは結局18年ぐらいですねえ。17、8年借りて、で、だいたい総額出すと、えー設備費用から全部通したら3千万ぐらい?


柴山:あー・・・。


こすぎ:で、そのうちの2千万ぐらいはやっぱりこう、団費とか、それぞれ、ね、公演の売上とかで、残りは結局、個人出費ですよね。要は、劇場を持つっていうことは、そのくらいのことを覚悟してないと。個人では、無理じゃないかなと。


柴山:うーん・・・。そうですね。ちょっと、奇麗事ではないですね。


こすぎ:だからここにしても、空調代から何からいろんなことを考えて、じゃあ1日あたりいくらかかるのか、で、それをいくらで借りてるのか、というふうになる。


柴山:そうですね、うーん。で、そこから割り出して、1日いくらって劇場費を計算してるわけじゃないんですよね?やっぱり。


こすぎ:うーん・・・。


柴山:それしたら・・・無理、ですよね・・・。


こすぎ:うーん、無理っていうか・・・。そりゃ毎日のようにあったらそらいいけれども、ま、基本的に無理でしょうね。


柴山:うーん・・・。佐藤さんは?


佐藤:いや、金の話をしだすとキリがないと思うんですけれどね。


柴山:まあ、ざっくばらんに。


佐藤:第2部で司会の仲谷さんもおっしゃってたけれども。僕にとって芝居をするっていうのが。僕は、もう福岡に、プロとかアマチュアとかいう言い方ではないんですけど、職業役者みたいなものがね、ほんとはあっていいんじゃないか、みたいなことは考えてたんですよ。22年くらい前からになります。25年前にこの世界に入ったんですけど。そんなこと考えて、それが可能じゃなければきっとやってないんですよね。趣味ではやってない、と。僕はもう、これで生きる、と決めましたから。だから、となってくると、どこどこの劇場を借りるとなったら、申込して抽選して、で、やっと借りて。そういうのもあるでしょう?
稽古場も、6時ぐらいに集まって、えー、9時半ぐらいに出て、というような。
そうすると、荷物を持っていってまた持って帰らなきゃいけないだとか。その非効率さって無駄だなーって本当に思う。で、自分たちの場所を持つことが、やっぱり当たり前のように考えてたの。だから、お金はもちろん計算するとね、たいへんな金額になるかもしれないんですけど。
ま、それで、借金が増えたわけじゃありませんからね。


柴山:あー・・・。


佐藤:うん、だから、借金があるわけじゃない。つまり、なんとか消費してきたわけですよ。それを運営していくことが、僕にとって、重要なことだったから。それで芝居が荒れるというふうなことになっちゃあ、また元も子もないんですけれど。
うーん、やっぱりね、自分の足で立つっていう。カッコつけて言うわけじゃないんだけど、自分の足で立たないといかんような気はしますよね。
だからここ何年間か、劇場をつくってくれとか、稽古場をつくってくれっていう、学生さんたちが運動したりっていう時期があったりとか。2~3年前かな、市長が替わる直前ぐらいに、劇場が建つだのなんだの。


柴山:そうですね、ありました。


佐藤:署名だのなんだの、いろいろ回って来ましたよ、ウチにもねえ。
こんなことやってていいのかなあと。疑わしいな、と思った。結局行政がやるとそうなっちゃうんですよね。


柴山:うーん。


佐藤:ま、ここも・・・僕は詳しくは分からないんだけど、それに近いものだろうけれども。
なんとか自分たちで、必要なものを生み出していく方法?で、石川さんがさっき言ってたみたいに、みんなで運営すりゃあ夢工房は続いてたよ、と。いうようなこともあるでしょうし。そんなことで、石川先生、昔よく言ってましたよね?芝居横丁みたいなのつくったらどうだと。テアトルさんの・・・・・・


柴山:それは、夢工房の近くに・・・・・・


佐藤:そうそうそう。あのあたりはね、芝居横丁にしようじゃないか、とか言う話とかあって、僕はやっぱりいまだに覚えてるとこがあって。で、そんなことを、今回みたいなお若い方々がパネリストとして、みんなの前でお話するなんつうのは、考えられなかったです。20年ぐらい前はまだ。
あのー、それぞれ独立してて。悪口は言うけど(笑)で、酒飲んでケンカはするけどね。
だけど、こんなふうにみなさんから見つめられて、「えー、10年経ちました、演劇についてこう思います」みたいなことを発言するなんていうことは、皆無だった。


柴山:ふうーん。数としてはどうだったんですか?そんなにたくさん劇団ってあったんですか?


佐藤:おそらく僕が記憶してるのは、20年ぐらい前で、130とか40とかいう、報道が出たんですよね。朝日新聞だったかな。


柴山:はい。


佐藤:で、「あ、そんなにあるんだー」っていうふうに、僕はびっくりしたんですよね。
だから今現在、いくつぐらいあるのか・・・・・・、70とか80とかぐらいっていうウワサですけどね。


柴山:まあ、目に付く劇団というのは、もっと少ないんですよね。


佐藤:うん、だから結局、一公演毎に、「劇団名付けようか」「じゃあ公演やりました、はいじゃあもう解散しようか」みたいなものって、多いんじゃないでしょうかねえ。僕らのときって、芝居するのにはお金がかかる・稽古場もなんとかしなきゃいけない・貧乏だっていう状況で。だから相当、時間がかかったんですよね。で、公演するのに、けっこう覚悟がいる、みたいなことになって。だから今みたいにこういう、ぽんプラザホールみたいなところがあると、安いんですよね。わりとね。


柴山:はい、そうですよね。


佐藤:使い勝手がいい。で、便利もある。便利になった。稽古場もパピオ、みたいなのが・・・・・・


柴山:そうですよね。パピオが出来たのは大きかったですよね。


佐藤:条件が揃ってきたっていう。


柴山:そうですねー。


佐藤:やりやすくなったから、さあ、じゃあそれでいいのか、ってところもあるだろう。
やりやすくなったことで、ひょっとすると、芝居をつくることの情熱・気持ちの結集力・作品にかける想いが、薄ーくなっていったところってないのかなーって感じはちょっとしてますよね。


柴山:あー。確かに自分たちの稽古場も含めて何かのテリトリーをつくるという意識で、小屋を持つことに至ったわけですし、そうなると覚悟の持ち方が違ってきますよね、当然。だから、まあ、今とは多少、恵まれた環境とは、違うという・・・・・・。


佐藤:かもしれないですね。だから、やりたい想いというのが、ついでじゃない。みたいなところがあるんですね。だから、「これしかない」みたいなところがある。
石川先生もそうだと思うんですね。「もう結局芝居で生きていくしかない」となるところからスタートして。
だから、ま、それはひょっとすると、ちょっと違うかもしれないけれども、趣味でやっていくか・自分の生き方として芝居を選んだか、っていう違いってのはあるでしょうね。


石川:僕は初めて、佐藤君と出会ってね、プロでやっていこうと思った人なのよ。
で、僕もプロで、メシ食っていきたいと思ったの福岡で。こらもうとてもじゃないけどね、大変なことです。
でも、彼が、そう・・・・・・来たわけですよね。それはねえ、やっぱりねえ。
なぜ、僕が小劇場をつくったかいうとね、少年科学文化会館とかいろんな劇場見てね、裏方の人たちがね、なんかよくなかったんだよ、はっきりいうと。
そんでね、なんかケンカしたときもあります私は。ほんでね、自分で小劇場つくってね、やりたいなーと思った、それが僕のきっかけです。


柴山:あー。


石川:うん、「なんだ、こいつらは!」っつうのがね、最初のきっかけですよ。


柴山:なるほど。大きな劇場とか、公立の劇場を借りるときには、いろんな問題もある。だからこそ、あの、自分の劇団専用の小屋が持ちたいということで、おそらくこすぎさんなんかも・・・こすぎさん全然、御発言されてないので、ぜひしゃべっていただきたいですけれども。


こすぎ:まず、やっぱ小屋のロケーションってある。僕ら、シアターポケットつくった1990年っていうときは、清川は、天神から博多駅に歩いて行けるぐらいのところで、なんかちょっと怪しそうだなという感じで。だから、今、キレイに整理されてしまって、ビルがキレイに建って、んー、小屋、つくる感じじゃないなあ、っていう。
だから、だから今はそういう面では、んー。僕の感覚の中では小屋イコールおしゃれというのは全然結びついてないんで、だから私あのー、汚いシアターポケットで全然オッケーだったんですけども。今の若い人たちがつくろうと思うと、なんかすごいおしゃれな感覚で。


柴山:キレイなカタチで。


こすぎ:うん。考えちゃうのかなー、とか。そのロケーションとかからすると、今、お金があったら・・・やっぱ美野島とか住吉とか、あのあたりが。


柴山:うん、うん、うん。


こすぎ:ちょっと怪しそうなところがいいですね。


柴山:そうですね、ちょっとなんかいかがわしいというか、なんかその場所に、いかがわしいって言うと語弊がありますけど、場所の空気とか匂いとかってありますよね。こう・・・なんて言うんですか、・・・つくりたくなるような。


こすぎ:そうなんですね。


柴山:うん。


柴山:シアターポケットは、元はなんだったんですか?


こすぎ:あそこはもともとねえ、昔で言うところのおさわりバーとか、クラブ・・・クラブっていうかなんかこういう。絨毯が、次から次へとこう・・・・・・


柴山:な、何ですか?


こすぎ:いや、最初の店から次の店に入ったときに、剥がずに絨毯を上から敷いていって。・・・・・・それをまた次からとか。
最初はキレイにしようと思ったときに、「絨毯取りましょうー」と、ばあー取って、「あーすいませんもう一枚出てきましたー」・・・って、キリがないくらい絨毯が次から次に。


柴山:はあー。なんかまあ、雰囲気ある小道を入っていって・・・・・・でしたよね。奥まったところにあって。


こすぎ:一階なのになんで雨漏りすんのっていう。(笑)


柴山:他の劇団のお芝居を、私もあそこで何度も観てるんですけど、貸し出しもされてましたよね。


こすぎ:ええ。


柴山:いかがですか?いろんな人が使ってもらう劇場として、愛すべき劇場として、みなさんの口から名前が挙がってたと思うんですけれども、そこらへんは・・・。


こすぎ:そうですねえ・・・。


柴山:問題もあった?


こすぎ:それはもう・・・いろいろと。


柴山:いろいろと。


こすぎ:はい。まああの・・・ね。地域の住民の方もいらっしゃいますし。


柴山:あー。


こすぎ:でもそこで、まあその場で打ち上げしてもいいよって言って。そしたらかなり時間遅くまでワイワイやってしまったとか。


柴山:あー。あそこは泊まりは許していたんですか?


こすぎ:っていうか、そこまで管理できないんですよ。それやってるよりは、僕は別で働いたほうがいいんで。
だいたい金土日3日間、鍵渡して。おそらく泊まり込んで、建てこんだりとかは、やってたんじゃないですかねえ。


柴山:ほー。じゃまあ先ほど第2部でも話が出ましたけども、実は理想に近い場所だったわけですよね、もう。鍵渡されて、好きなように使っていい。


こすぎ:うん。ただそれで、その場で飲食したりとか散らかしたりすると、ねぇ・・・。やっぱゴキブリは来るし・・・。


柴山:そうですねー。


こすぎ:だから難しいとこですよね。


柴山:あー・・・ん。そうですねー。アトリエ戯座なんかも、たまに貸してらっしゃったりしました?


佐藤:そうですね。でもやっぱり雑居ビルだったし。僕個人が、誰にでも、荒らされたくない、みたいなイメージが、どっかあったんでしょうねえ。
縄張り意識みたいなものが。だから、ちゃんとやってくんなきゃヤだ、みたいなのがあって。
だからそういう意味では、表立って貸し小屋でやりますよ、というシステムは取ってないんですね。


柴山:あ、そうなんですね。


佐藤:ええ、ですから、お話しして、一回面接をしていって、というふうな。


柴山:でもそこ、難しいですよね。管理する側になると、どうしても言いたいことも出てくるし。


佐藤:そうなんですね。だからルールが、やっぱり必要になってくる、っていうふうに考えましたね。


柴山:平尾のアトリエ戯座は存じ上げてないんですが、大名にあったアトリエ戯座のビルは、住んでらっしゃる方がいたんですよね?


佐藤:そうですね、4階以上が


柴山:居住区域?


佐藤:居住区域で、アトリエ戯座は2階にありましたから。


柴山:そこらへんからの文句とかは?


佐藤:いや、まったくなかったですね。


柴山:あ、なかったんですか。


佐藤:うちは2階の棟が天井だったんですよ。ちょっといびつな造りで、ちょうど舞台に当たる部分が天井だったんです。
ほぼ半分かな。だから、そういう意味では、比較的問題なかったですね。
隣は、重量挙げをぼんぼんぼんぼんやるとこだし、反対側はダンスの先生のスタジオだったし。だから、そういう意味では、うちのほうが静かだったかもしれない。


柴山:はあー。じゃあまあわりと、あの、同じビルの方にも、暖かく見守られたりだとか。


佐藤:まあ、トラブルはなかったです。


柴山:なかった。


佐藤:ええ。ただ、地震がちょうど真下だったもんですからね。西方沖地震の。それでやっぱり、古いビルだから、相当痛んじゃって。


柴山:あーあー、なるほどねー。


佐藤:そういうことがありましたね。


柴山:なるほど。石川さん、夢工房のことで前お話伺ったときに、一番悔やまれるのは、地域の住民の方と交流することがあまりなかったことだというふうにおっしゃってたんですけども。佐藤さんのところは、問題なく。でも、シアターポケットの場合は、その場にずっと居られないので、地域住民に迷惑をかけたところもある、ということなんですけど。いかがですか?地域で小屋を持って、地域の人たちとどの程度、距離を計って交流していくか、という。


石川:まるでなかったね。それが一番、悔やまれます。
やっぱりね、最初に、小屋をつくって、「みなさん、ちょっと、こんな変なトコだけどね、観に来てくださいー」っちゅうのがね、まったく出来なかったよね。なんでだろう。そんでね、あのー、牧伸二さんっちゅって居ますよね。「うーうーやんなっちゃった」ちゅうね。それであの人がね、福岡に来るっちゅうてパーティーをしたの。そしたらね、お客さん5人ですよ。そのときになんで、近所にいっぱい、「、タダでいいから来てくれ」っちゅうのをしなかったかなあ、っちゅう。
近所とのつながりがなってなかった。そらもう、最大の後悔ですね。そういうことが、僕の意識の中になかったの。
なんかこう、ちょっとね。演劇やってるぞっちゅう、エリート意識が、なんかあったような気がするよね。


柴山:1982年ですよね。その当時っていうのは、お芝居に対して、一般の人たちってどういう意識だったんでしょうか。一時期は、例えばすごく昔で言えばアカだ、とか、いろいろ時代によって、お芝居やっている人への印象って、あったと思うんですけれども。1980年代、小屋を持たれて、その地域の人と交流できなかったとおっしゃるのは、向こうにも何か、なんとなく敬遠してしまうような意識があったとか・・・・・・どうなんですかね?


石川:あのね、観に来てくれるという人はね、居たんですよ。ただ少数ですね。んでね、近所に働きかけることを、僕はしなかった。
やっぱなんかね、アングラっぽいとかさあ。そういうのがあったのね。だから大衆演劇っていうかさあ、そういうのがなかったのね。


柴山:わかんない人に観てもらわなくてもいい、とかっていう感じ、だったんでしょうか・・・?


石川:そう・・・じゃないんだけどねえ、なんだろうねえ、まあそこまでの意識がなかったんだろうね。それがやっぱ、一番、ダメになった原因でしょうね。


佐藤:やっぱり商売っていう、感覚と違うところがあるじゃないですか。客商売と考えるか、ある芸術活動と考えるか。


柴山:そうなんですよね。


佐藤:だから、商売とは一線を画したところがあったのは事実だと思います。


柴山:うーん、なるほどね。うーん、そこ難しいですねその折り合いって。


佐藤:そうですね。


石川:そうね、芸術家とか、そういう意識がやっぱあるよね、どっか。「えー観なくていいよ」とか「わからんやつは来るな」とかね。そういうどっか、意識がどっかにあるよね。


佐藤:当時別役実の芝居をやると、「あんたの芝居は難しい」とか言われて。
「考えなきゃわからん」と思うんだけれども、「難しいねー」とか、言うでしょう。そうすると、「あんたが馬鹿だから」とも言い返せないし、「じゃあ簡単な芝居しましょうか」とも言えないし。


柴山:確かに、「分かりやすい芝居だったね」って言われて、嬉しいかというとそれもなかなか難しい、ですよね?きっと。


佐藤:僕今嬉しいですよ。


柴山:あ、うれしいですか?


佐藤:僕は嬉しいけども、やっぱり、「新喜劇とか、ちょっとギャグを間に入れて、というふうなカタチの見せ方をやってくれれば、喜んで行くけどね」とか言われて、そこの演目を持つっていう勇気はなかなか持てなかったのは事実でしょうね。


石川:そうそう、それでね。離れていった弟子がいるんだけれども。僕は、別れたときね、わしゃ芸術家になるっつったの。
弟子の人は、商売人になったのね。で、それはものすごい成功したの。だからすんごいマンションに住んでね。
で、僕はね、もうしょぼしょぼしょぼしょぼ生きてるわけよ。
で、わしゃあね、芸術家になる、芸術を選ぶっていうんで、そこで別れたんですよ。そらはっきりいってそうだね。
だいたい芸術ってのは言い出したらね、もう貧乏この上ない。でね、あの、私はやっと、米5キロと、ちょっとの酒があったら、もうこれでいいと思ってるから。


佐藤:そういうのがあると。


石川:あのね、やっぱ、いっぱい望んだらいかん。


柴山:やっぱり・・・


佐藤:理想的にはね、商売人的感性を持ったプロデューサーが横に居てくれるのが、理想でしょうね。


柴山:そうですね、ま、自分は、作品に専念して、横にっていう・・・。


佐藤:でしょうね。


柴山:うーん。ま、でもなかなか難しい、先ほどもその話がチラリと出てましたね。うーん。 こすぎさん、いかがでしょうか?


こすぎ:ま、だから、けっこう、ヒモが多いのかなっていう。


柴山:あ!そうなんですか?初めて聞きました!


こすぎ:ちゃんとしてくれる人を、キープして。


柴山:キープして。


石川:それがいいんだろうね。


柴山:あのー、ヒモがいるのがいいで終わるとちょっと・・・・・・、ダメだと思うので。まだもうちょっと時間ありますので・・・・・・


佐藤:昔はね、バイトをする暇があったら彼女作っとけよという、時代がありましたよ。


柴山:そっかそっか。


佐藤:女性はねえ、バイトするくらいなら、スポンサー見つけろ、っていう。


柴山:あー・・・・・・。


佐藤:って言ってたことありましたよ。おそらく石川先生もその時代ですよね?まちがいなくね。


石川:うーん、まあ、昭和33年、1958年だ。みなさん生まれてないでしょう。
終戦後ちょっとの時代ですよ、あたしが大学で演劇始めたのは。で、劇団に入って、なんかかんかやりながらね。なんちゅうかなーもう、メシが食える食えんの時代だったからね、今、ぜんぜん怖くないんですよ。ちょっとね、米がちょっとあってね、酒がちょっとあったらね、私はね、ぜんぜん怖くない。
ね、だからみなさんも、原点に帰ってね、ちょっとメシが食えたらね、いいですよ。というふうにね、やってください!


柴山:もう・・・ちょっとの米とちょっとのお酒で、いかがですか。
確かに、舞台芸術をやっている人の意識もずいぶん、ここ2、30年で変わったのは事実ですよね。
小屋を持つ持たないも含めて、環境はずいぶん、整ってきて。そのおかげで、いいモノもつくれてるんでしょうけど、さきほど、佐藤さんがチラリとおっしゃったけど、多少の覚悟が、昔とは違うかもしれない、とか。そういうことですよね?


佐藤:僕、今まで、あまり若い人の芝居観てないんですね。昔は観てたけれども、行かなくなっちゃった。
で、最近、あんまり良く知らなかったんですけれど、今日こういう機会があって、何人かお会いして。
「あーしっかりしてんだなー」という、印象も受けたし、「周りのバックアップも素晴らしいな。こういうチャンスを与えられて、そしてそれに応えるべく、彼らもしっかり準備をし、行動してる。だから、僕は今、他の作品観に行ったりすることもなかなかなくなったんだけど、夢中でやってんのかな」という印象をすごく持って。


柴山:あーなるほど。


佐藤:うん。で、昔、何本か観て。ほとんどオリジナルが多い。ですよね?僕はわりと既成の作品が多くて。


柴山:そうですね。


佐藤:自分の芝居では、もうほとんど書いてない。当て書き的なものになんか辟易してたとこがあって。
役者としても演出家としても、入り口で、しっかりした本の中から、演劇としっかり格闘するようなね。
必要な肉体のケアもそうだし、音のトーンの問題もそうでしょう。そういうものに対して、真剣にぶつかりあう。っていう人をあまり見たことがない。
で、そのことが実は非常に薄味になってる、芝居自体がね。
だから、オリジナルが良い悪いという問題とはまた違う問題なのかもしれないけれど、ある時期、しっかりと練られた本で、ここ百年百数十年残ってきた本の持つ威力をね、しっかり向き合って芝居づくりしていく時間というのは、僕は絶対必要だと思ってるんですよね。
で、そのことがなく、なんかややもすると、今、テレビではお笑いばかりですから。尺が長めのコントみたいな、「人前で恥ずかしいことは平気でやるけれども、しっかりした人物を生きるなんていうこととは無縁ですよ」みたいなことで、舞台を飛び跳ねてる姿を見るときに、あ、さみしいなあーと思ったりもするんですよね。
これじゃあ、職業として選びようがないだろうと。そうすると自分の仕事として、演劇を見ることは難しいだろうな、というふうには感じます。
そうなれば、自分たちで小屋を持つなんてのはそれは無駄なことですね。石川さんの話じゃないけど、いくらでもあるんだからそこでやったほうがいいよ、と。維持するのは大変だよっていう話になっちゃうから。


石川:一生懸命、なんかねえ、なあんか・・・・・・。でも、今、その頃にずうーっと出て、やってた人たちはね、ずーっとまた戻って来てるんですよ。
だから、まあ、無駄でもなかったなあちゅうことを感じてます。それで、僕今ちょっと思ったけど、みなさんね、なんでここにいると?
なんでいるのかね、訊きたい。


客A:私、お客さんの側として、いろいろ芝居を観てきているわけなんですけども。
お芝居をやっていたりですとか、もしくはあの劇場を運営してらっしゃる方々が、今何を考えて、そしてこれからどのようなことをしていきたいのか。もしくは、ちょっとお年を召して、例えば後輩を見つめる立場になった方々が、何を次の演劇人たちに向けて語りたいのかというのをちょっと見たくて、私は今日、こちらにおります。


石川:わかりました。


佐藤:その気持ちは満足しました?


客A:はい。


佐藤:少なくとも僕も、こすぎさんも、石川さんも、続けてきてるわけですね。今まで続けてきてるわけです。これからもたぶん続けていくんですよ。
で、なんとなく難しい話なんですけども、芝居ってひとりじゃできなくて、チーム力ってどうしても必要になってくる。
そしてね、これまたおかしなことで、70になっても出来れば、5歳でも可能なんですよね。つまり年齢差っていうのは必要なんですよ。人間である以上。
だから、その中で、いろんな人たちがいろんな表現を持ち合わせてると思うんです。それぞれが情熱をかけて、やっていくわけですね。
そして、お客さんに見せる以上は、あの、術って必要なんですよ。最近多いのがね、思ってれば伝わる、っていう人多いんですよ。あの、勘違いしてる。
そんなの伝わるわけがない。だって他人なんだもん。ねえ、恋人同士、伝わんないことも多いでしょ?結婚相手にも気持ちが伝わんないこと多いじゃないですか?それにはやっぱりね、伝える技術っていうのが必要になってくるんですよ。
で、そういうものを、やっぱり大事に僕は考えていきたい。で、それをやっぱり伝えていきたい。で、やっぱり言葉も伝えていきたい。
でねえ、わりと簡単に、僕らも若い頃思ってた。思っていれば伝わると。自分が悔しいと思えば悔しい思いが伝わって、同じように悔しがってくれると思ってた。
そんなもんじゃないですね。だから、それ勉強さしてもらったのがやっぱり完成された台本の持ってる力でした。僕には。
だからいつかそういう本が書けりゃあ、またオリジナル、僕もやるかもしれないんですけどもね。そんなことを伝えていきたい。


石川:あのね。僕は、弟子といえば弟子がね、40年の間にね、いっぱいいました。でもね、はっきり、佐藤くんの今言ったことがね、やっとわかってね。
技術がなければね、演劇はね、表現できません!情熱とかね、なんとかかんとか言ってもね、できないんだよ。ね?
技術です!その、演技術。これがね、究極、と、いまだに僕は思います。


柴山:はいありがとうございます。じゃああの、最後にこすぎさんに。今、二人がおっしゃったことをまとめていただいて。いかがでしょう。


こすぎ:んー・・・技術、どうですかねえ、私は正直わかりません。
技術ってのはどこまで含めての技術なのか。だんだんやってくると、動けなくなるというかね。若い人の演技見て、身振り手振りが多すぎる。おそらく動かなきゃどんどん不安になってきてるんだろうなと。技術っていうのは、えてして誤解されがちじゃないですかね?動くだけの引き出しをたくさん持ってたらいいのか?それが技術なの?って言ったら、またそれでもないような。
だから、技術は私もある程度は必要だと思うんですけども、技術っていう言葉に対しての定義づけみたいなところで、みんな同じような感覚を持ってるのかどうか、っていうのがわからないんですね。


柴山:そうですね。んー。ま、簡単に言っちゃうには危険だと、いうことですね。


こすぎ:そう・・・ですね。


柴山:わかりました。あの、ちょっとここから話がこう、発展していきそうな雰囲気のところで、残念なんですがもう・・・


石川:あのね、技術っちゅうのはね、発声とか発音とかアクセントとかね、そういうものなんですよ。
それがあいまいなとこでやってる人はね、やっぱりちょっと伝わらないんです。
んで、例えば、じーっとして何かを伝える技術ってのがある。なんにもしないのが演技っちゅう。僕はそういうふうに思ってる。
だから、演技は演技をしないことが、演技だ、ということが、究極のものだと、ね!と、僕はあの、思ってます。
だからね、あの・・・(マイクを置く)


柴山:すいません。私が目でなんかちょっと、圧力をかけたようですが。えー、3人の先生方、先輩方に大きな拍手をお願いいたします。ありがとうございました。