NYLON100℃ 23rd SESSION『フローズン・ビーチ』(再演)
作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
収録:2002年7月、於・紀伊國屋ホール
舞台は、中南米とおぼしい小島の別荘。そこに集う五人の女たち、市子(犬山犬子)・千津(峯村リエ)・愛(松永玲子)・萌(同、二役)・咲恵(今江冬子)の、16年にわたる愛憎劇である。
ケラリーノ・サンドロヴィッチの芝居では、海は異界であり黄泉(よみ)だ。『カラフルメリィでオハヨ'97』に波の音が響くとき、痴呆老人の夢幻世界と現実は交錯し、連作『フリドニア日記』シリーズでは、海中に死者の国がある。後者はコロンビアの作家、G・ガルシア=マルケスへのオマージュだが、日本神話でも理想郷「常世(とこよ)の国」は海の彼方にあるとされ、しばしば死者の国と同一視される(*)。そして海は、ユング心理学でいう「集合的無意識」にもつながる。論理以前の奇怪なイメージがあふれる、心の深淵のメタファでもあるのだ。
本作でも、波の音は異界の扉が開く合図だ。生と死の境は曖昧になり、ナンセンスは現実感を侵食する。切断された市子の親指は空中に「ゆ・び」と文字を描き、いったん絶命したはずの千津は息を吹き返し、羽虫は人間たちを嘲笑する。これはいったい惨劇か神秘現象か、はたまた出鱈目か?海と陸が接し、生と死が入り混じり、虚と実がせめぎあう渚(ビーチ)。ここは、そんな混沌空間なのだ。
ラストシーンに注目しよう。第三場の別荘は、地盤沈下で階下まで水没しており、つまり「脱論理世界」が喉元まで迫った状態だ。そこへ市子が怪虫カニバビロンを追って飛び込む、するとその水音を合図に廃屋の灯が点り、場違いに陽気なレコードが轟々と鳴りはじめる。ナポリの観光ソング『フニクリ・フニクラ』だ。登場人物を呑みこみ舞台上へ溢れ出た「出鱈目の国」の、歓喜の歌であろうか?激しい不協和感が素晴らしい。異界に呑まれ、生死の意味や虚実の境の無化した世界で、最後は海ではしゃぐ女たちの嬌声で幕は閉じられる。生きている意味などないし、死ぬのだって大したことじゃない……ケラのニヒルな死生観が色濃く現れたエンディングだが、これは人生の否定ではない。でなければ、皆こうも楽しそうに笑ってはいまい。
1987年、パンクロッカー時代のケラは歌っていた。
> 僕らはみんな生きているモノ
> 生きているモノに意味はない
> そこに意味があるかな?
(有頂天『AISSLE』より『僕らはみんな意味がない』、作詞・作曲:ケラ)
これは、ケラ流の裏返し人生賛歌ではなかろうか。思えば、常にカラカラ笑っていた咲恵は、快活というよりはニヒリストだ。人生に何にも期待していないからこその、底抜けの明るさ。彼女こそが、劇中世界観を体現する中心人物だったのである。
* 代表例は、浦島太郎の竜宮城。映画『ゴジラ』(1954)も、常世の国の使者の一変奏といえよう。 |