観劇ディスカッションブログ

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FALCON観劇ツアー日記より抜粋

2011.06.14 Tuesday | 第4回

観劇ツアーから帰りましたFALCONです。純粋に芝居のことだけを感じて芝居のことだけを考え続けた時間は濃密で、出かける前と比べると途方もなく長い日数を経過したような感覚がしています。
このような企画に参加させていただいたFPAP様、ともに参加した3人の演出家の皆さん、そして東京で出会えた作品や芝居屋さんたちに深く感謝しております。

固定観念はなく観劇に望もうとはしていましたが、ここ最近の僕自身のテーマである「演出家の役割とは?」という疑問は、結局のところ2泊3日の間、ずっと僕の心のど真ん中に居座り続けました。ある面では、答や方向性が見えて疑問が解放された面もあり、また別の見方をすれば、疑問はより難解になったり新たな葛藤を呼び起こしたりしました。

今回見せていただいた作品は全部で4本。主催者様の配慮や選別もあり、大小・硬軟さまざまなベクトルを持つバリエーションだったと思います。
1本目のShelfの公演は、民家を作り変えたような劇場で、「応え」や「辻褄」を極力排除した果てにたどり着く「結果」を発信する作品。受け手のニーズがこうだからこうしたのだという要素は限りなく少なく、自分でも解決できない部分に感覚のままに反射していく「行為」を舞台に切り出してある種の結晶化にたどりついた作品でした。
一方、2本目の「In Her Twenties」は、アイディアと芸を見せる腕をきっちりと見せる作品で、非常にわかりやすく、作り手として最も「共感」に値する作品でした。作品の大部分を決定付ける脚本の力、それをもとに人間を引っ張る演出家の力、そして演出家と脚本に身をゆだね全身で役を発色する女優の力、すべてが「役割」のもとに科学的に結合し、観客の感性を確実に揺さぶる演劇の姿を見ました。
3本目は平田オリザ率いる青年団の若手公演。大御所の切り開いてきた道の中で、リスペクトやインスパイヤはされていながらも、己の感覚を作品に落とし込み実験させてもらえるという層の厚さを感じました。演劇は普遍的な文学性に挑む以上、これほど自我の強い連中が集まっているにもかかわらず、不思議と「徒弟制度」が根強い傾向があります。大御所が切り開いた道を「肉付け」していく流れが読み取れて、演劇は多様な進化をし、継続&継承されていく行為なのだと再確認しました。
4本目は少年社中の天主物語。キャパ180ぐらいのオフブロードウエイクラスの劇場で繰り広げられるいわゆる「商業演劇」。きれいな顔の役者たちは、見事なまでに訓練されていて、そこにきらびやかな衣装と派手な音響・照明をぶち当てて、これでもかというほどの「非日常」に観客をいざなってくれる。「わかりやすさ」という点では、観客の努力なんてまったく要らないわかりやすさで、泉鏡花の描い100年前の葛藤を「現代」に再現した作品でした。

そして、それぞれの作品を見た後に、その上演時間と同じぐらいの時間をかけて、4人の演出家がディスカッションをします。「観客」の視点ではなく「演出家」の視点で話し合うのです。
「僕は好き」とか「ここがよくない」という視点はタブーです。こうして作ったからこうなっている、ここを自分の作品にこう活かす、観客にこう届いたからこういう作品なのだというのを、実に高次元な視点で解きほぐしていく作業が、とても勉強になりました。

それぞれの作品の概要や視点、ならびにディスカッションの内容や感想は、僕の劇団のブログなどを通じておいおい発信することにしますので、お時間や興味のある人はそちらをのぞいてみてください。
あえてここに記しておくべき収穫は、「演劇」という言語の多様性に気がついたことです。

僕は今まで、脚本の力を重視したわかりやすい作品を作ってきました。わかりやすさが大前提であり、ある面では、それこそが演劇の優劣を決める判断基準であったといっても過言ではありません。わかりにくい自己満足は見るに値しないし、届けるべきものを受け手に届けた上で判断を仰いでいる作品でなければ、邪道とみなし語るに足らないと割り切っていました。
それが、今回のツアーに参加しているうちに、他にも価値観は多様にあって、それを作りたいとか見てみたいという「人」も多様に存在するのだということを知りました。演劇という「行為」そのものが、太古から発生する実に本能的な行為である以上、その形態やニーズ、そして送り手と受け手のつながり方は、それこそ「人の数だけ」存在するのだということを実感した気がします。
つまるところ、「自分は自分」であり「作りたいものしか作れない」ということを再確認したに過ぎないのですが、ディスカッションや観劇を通して、その結論までの間には、実に多くの説得力がくわえられたと思います。

ちょっと観念的になりすぎましたので、軽く整理します。
例えると演劇は音楽と同じなのです。歌いたいとか奏でたいという欲求は本能的なもので、聞き手がいようといまいとその行為は太古の人類から続いてきた行為だと思います。同じように、肉体のボキャブラリーを駆使して「演じたい」という欲求は、本能として人間のDNAに刻まれ、これまで生きたすべての人間がそれを実践する中で多様化してきたのです。
その歴史の中で、欲するものがいなくなり消えていった旋律や楽器、奏法や調べがあったように、演劇もその時々の時代の中で変化し明滅を繰り返してきたのです。21世紀を生きる僕たちには、それらの先人の奏でた調べを選択するチャンスがあり、そしてこれから新たな調べを生み出していくチャンスがあります。

大舞台での商業演劇が、SMAPのコンサートや巨大なオーケストラのフル演奏だとすれば、小劇場・中劇場の演劇は、ライブハウスでのバンド演奏や室内管弦楽だというふうに捉えることもできますね。
演奏されるジャンルもさまざまで、楽しくなるために聞いたり、悲しさを歌ったり、大勢で聞いて盛り上がったり、たった一人で音楽に身をゆだねる時間だってある。歌詞のメッセージに共感することもあれば、まったく意味はわからなくてもいいから心地よい調べに包まれたいという欲求もあります。みんなに聞かせたい音楽もあれば、人生のテーマソングとして心に持ち続ける歌もある。
音楽と同じように演劇もそれでいいのだと思いました。

後の人々にもこの感情を伝えたいと思いつめた作曲家が、そのイメージを楽譜に貼り付けたように、脚本家が台本に貼り付ける台詞やト書きは「イメージ」を込めた音符なのです。すると「演出家」は「指揮者」ということになるのでしょうか。
楽曲やテーマ、もっと根源的なイメージや欲求があり、それを伝えたいのか?それともただ奏でたいのか?という、送受のニーズに合わせて、演奏法や演奏の形態を決定していく。演奏スタイルも大ホールやコンサートホール、ライブハウスやジャズステージなどにあわせて、音響や照明を駆使して決定していく。
ある意味では、そこにスタイルの好き嫌いや、得手不得手があるのも現実ですね。
そういう意味からすると、作家としての僕は「強烈な葛藤を共有できる普遍性や文学性のある脚本」を書きたいし、演出かとしての僕は「それらのイメージをシンプルかつストレートに再現し、受け手側に余すところなく届けた上で感じてほしい」ということになります。箱でいえば、今のところドームツアーなどには興味がなく、坂本サトルがたった一人ギター一本で3時間のライブをこなすように、音や照明で着飾ったショーじゃなくて、「極限のみ」をそぎ落とした作品作りに興味があるということですね。

そういうことを、改めて再確認するに終わったツアーでしたが、なにより自分自身に対しての多角的な説得材料を得られたことに感謝しています。また、同時に参加した3名の演出家のみなさんとは、「同期の桜」ではありませんが、ある種の連帯感を得られたので注目して行こうと思っています。
いろいろなことを感じ、考えた3日間。ありがとうございました。


追伸:そして、もうひとつ、上に述べた観点から解きほぐしてみて浮かび上がったテーマがあります。それは、「音楽は金になるのに演劇は金にならない」という由々しき問題です(笑)金にならないがゆえに深く話し合われることがなく、明確な住み分けがなされないまま漠然と「演劇」が定義されていることが、ひとつの問題点だと思いました。
この問題を打破する答はひとつです。たくさんの人が舞台の裏表にも客席にもあふれて、作って、感じて、語りつくして、演劇はもっとたくましい言語に進化していくのです。つまり、「みんな劇場に行こう!」ということです。「観劇」し、「ディスカッション」しようぜい。。。

falcon
  
  
  
  
  
  
  
  
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