レポート:谷 竜一
2011.04.11 Monday | 第3回
今、東京で、「ドラマ」についての覚書 〜時間堂『廃墟』ワークインプログレスを中心として
東京は暗かった。物理的に。
眠ることを拒否してきたようなこの街も、夜八時を過ぎれば明かりを落とし、駅のホームには「不要不急の外出はお避けください」の張り紙があった。
時間堂のワークインプログレスは、こうした状況の中、行われた。
私たちが観覧したのは、4度開催されたうちの最終回。今回は通し稽古を観覧するという趣旨だった。舞台は照明と、いくらかの小道具を除けばほぼ本番を想定した状態。演目は三好十郎の『廃墟』。作者の戦後4部作と呼ばれるうちの一本。敗戦から暫く立ったある家庭における、登場人物各々の意見のぶつかり合いを描いた作品だ。詳細は青空文庫等のアーカイブに譲るとするが、現代と60年余りを隔てたこの戯曲をどう上演するかは、私にとって大きな注目のうちのひとつであった。
スタニスラフスキー・システムとマイズナー・メソッドを学んだという演出の元、俳優たちは焦土となった日本で顕わになってしまった家族とその周囲の人々の意見の相違を軽やかに描いていた。シンプルな舞台ながら、中央のテーブルと上手手前の防空壕を基点として、役の心情と関係性の変化に従ってバランスよく導線を描く俳優たちは、演出の空間構成の確かさを感じられた。
特に見応えがあったのは中盤以降、劇団員を中心として、家族間の対話に入り舞台が独特のうねりを生み始めていた。私は見ることはできない本番に期待を持ち、興味を沸きたたされた。
終戦から1年後に書かれた戯曲ではあるが、上演にあたってのせりふの改変はなし。演出家の弁によれば「耳で聞いて心地よいかをたよりに」構築された発話は、単語単語をつぶさに拾い上げるというよりはむしろ、戯曲のせりふが持つ大きな波を捉えることに主眼が置かれていたようだ。こうした意味では、確かにドラマは進行しているが、それは単なる戯曲の再現ではないことがわかる。
言葉をいかに取り扱うか、という点は演劇において常に問題である。それが古典ならなおさらだ。それはつまり、その時代の再現をどの程度行うのか、あるいはその戯曲を自分たちにどこまで引き付けるかという問題でもある。時間堂の今回の作品において、軸となっていたのはあくまで俳優の身体である。現代に生きる彼らは三好十郎の言葉を自分の知覚に引き受け、その反射として演技にしてみせた。つまり、彼らにとって「戯曲」とはサーフィンにおける波のようなものか。私にはそう感じられた。
この劇団にとって上演とは、戯曲特有の物語を再現することではないのだろう。だとすれば、いつ、どのように描かれた戯曲であろうが、関係ない。人間と人間の関係は常に現在のものとしてある。彼らがその身体で関係を引き受ける限り、この魅力はあくまで等身大のものとしてそこに現れ続けるのだろう。
今回観劇した他の3本は、どうだったか?
一見して最も近く思えるのはパラドックス定数だが、彼らは俳優ふたりの発話のみを情報源とし、チェス、数学、暗号、戦争を幾何学パズルのように鮮やかに転がしてみせた。その手つきは問題が複雑であるが故に美しかった。その美しさの源泉はとは何か?パラドックス定数もまた、第二次大戦中に時代を設定していたが、彼らの上演は現代日本語戯曲であり、言語が現実に即していたかははじめから問題にされていない。非常に限定的な状況ではあるが、よく似た二人の男がどのように語りあい、交感するか、その様が普遍的であるが故ではなかったろうか。
また、青年団若手公演『バルカン動物園』はどうか。言語の問題としてはこちらもパラドックス定数と同じことが言える。なにしろ設定が近未来だ、未来の言語なんて分かるはずもない(近未来も大して変わってないんじゃないの、という作家の姿勢は見えるが)。『バルカン動物園』の登場人物は、各々の持つ情報が大いに偏っている。登場人物に意見の齟齬があり、そこから舞台が展開するという意味においては、時間堂との共通点を見ることもできる。だが、時間堂の『廃墟』において、状況こそ戦後の焦土の中だが、そこから生まれる関係は一般的な家族のものにフォーカスし、そしてその関係性そのものを見せていた。対して青年団では、登場人物のフォーカスは解決のしようのない「問題」そのものに合わされている。彼らは同僚・友人といった他人に近いような(少なくとも家族ほど密接ではない)ゆるやかな関係でありながら、その「問題」を共有することで舞台に存在し、それぞれの存在を浮き立たせていくもののように思われた。
もうひとつのゲキバカ『ローヤの休日』は戯曲構成にやや弱さはあるものの、俳優たちの躍動する身体とその高いパフォーマンス能力によってそれを補い、ダイナミズム豊かな作品としていた。この身体と俳優の個別性への信頼もまた、かけがえのない演劇の魅力のひとつだ。
ドラマとは何だろうか?何を生むのだろうか?今回のツアーで、私は何か答えをつかめたか?答えはノーだ。相変わらずわからない。
ただ、言えることは、今回のツアーで観劇した4作品はそれぞれに違うドラマの持つ役割をみせていた。たとえ用いられるモチーフは限りあるものであっても、そこにどのように光を当てるかによって、その印象は大きく異なってくる。私にできたのはかろうじて、こうした作品たちがそれぞれに違う美意識のもとに生まれてきたのだということを感じ、その美しさ、豊かさに触れ、参加者の方に適宜突っ込まれながら、いくらか言葉にすることだけだった。
いつ、どんな時にも演劇が有効である、ということを、私には言うことはできない。私は演劇をそこまで過大評価してはいない。しかし、今回の震災のように、大きな変革期に差し掛かった今なお、ドラマは俳優たちを、観客を突き動かす動機として、未だ機能し続けている。
今回観劇した作品はいずれも大入りであったことは、演劇に期待をかける人がまだまだ居るということを、局所的ながらも示している。そしてもちろん、こうした幸せな作品たちを見て、存分に語り合った私は、またドラマに期待してしまった。
これからもまだまだ幸せな演劇は生まれてくると思う。自分もそのために尽力したいと、強く思った。
東京は暗かった。物理的に。
眠ることを拒否してきたようなこの街も、夜八時を過ぎれば明かりを落とし、駅のホームには「不要不急の外出はお避けください」の張り紙があった。
時間堂のワークインプログレスは、こうした状況の中、行われた。
私たちが観覧したのは、4度開催されたうちの最終回。今回は通し稽古を観覧するという趣旨だった。舞台は照明と、いくらかの小道具を除けばほぼ本番を想定した状態。演目は三好十郎の『廃墟』。作者の戦後4部作と呼ばれるうちの一本。敗戦から暫く立ったある家庭における、登場人物各々の意見のぶつかり合いを描いた作品だ。詳細は青空文庫等のアーカイブに譲るとするが、現代と60年余りを隔てたこの戯曲をどう上演するかは、私にとって大きな注目のうちのひとつであった。
スタニスラフスキー・システムとマイズナー・メソッドを学んだという演出の元、俳優たちは焦土となった日本で顕わになってしまった家族とその周囲の人々の意見の相違を軽やかに描いていた。シンプルな舞台ながら、中央のテーブルと上手手前の防空壕を基点として、役の心情と関係性の変化に従ってバランスよく導線を描く俳優たちは、演出の空間構成の確かさを感じられた。
特に見応えがあったのは中盤以降、劇団員を中心として、家族間の対話に入り舞台が独特のうねりを生み始めていた。私は見ることはできない本番に期待を持ち、興味を沸きたたされた。
終戦から1年後に書かれた戯曲ではあるが、上演にあたってのせりふの改変はなし。演出家の弁によれば「耳で聞いて心地よいかをたよりに」構築された発話は、単語単語をつぶさに拾い上げるというよりはむしろ、戯曲のせりふが持つ大きな波を捉えることに主眼が置かれていたようだ。こうした意味では、確かにドラマは進行しているが、それは単なる戯曲の再現ではないことがわかる。
言葉をいかに取り扱うか、という点は演劇において常に問題である。それが古典ならなおさらだ。それはつまり、その時代の再現をどの程度行うのか、あるいはその戯曲を自分たちにどこまで引き付けるかという問題でもある。時間堂の今回の作品において、軸となっていたのはあくまで俳優の身体である。現代に生きる彼らは三好十郎の言葉を自分の知覚に引き受け、その反射として演技にしてみせた。つまり、彼らにとって「戯曲」とはサーフィンにおける波のようなものか。私にはそう感じられた。
この劇団にとって上演とは、戯曲特有の物語を再現することではないのだろう。だとすれば、いつ、どのように描かれた戯曲であろうが、関係ない。人間と人間の関係は常に現在のものとしてある。彼らがその身体で関係を引き受ける限り、この魅力はあくまで等身大のものとしてそこに現れ続けるのだろう。
今回観劇した他の3本は、どうだったか?
一見して最も近く思えるのはパラドックス定数だが、彼らは俳優ふたりの発話のみを情報源とし、チェス、数学、暗号、戦争を幾何学パズルのように鮮やかに転がしてみせた。その手つきは問題が複雑であるが故に美しかった。その美しさの源泉はとは何か?パラドックス定数もまた、第二次大戦中に時代を設定していたが、彼らの上演は現代日本語戯曲であり、言語が現実に即していたかははじめから問題にされていない。非常に限定的な状況ではあるが、よく似た二人の男がどのように語りあい、交感するか、その様が普遍的であるが故ではなかったろうか。
また、青年団若手公演『バルカン動物園』はどうか。言語の問題としてはこちらもパラドックス定数と同じことが言える。なにしろ設定が近未来だ、未来の言語なんて分かるはずもない(近未来も大して変わってないんじゃないの、という作家の姿勢は見えるが)。『バルカン動物園』の登場人物は、各々の持つ情報が大いに偏っている。登場人物に意見の齟齬があり、そこから舞台が展開するという意味においては、時間堂との共通点を見ることもできる。だが、時間堂の『廃墟』において、状況こそ戦後の焦土の中だが、そこから生まれる関係は一般的な家族のものにフォーカスし、そしてその関係性そのものを見せていた。対して青年団では、登場人物のフォーカスは解決のしようのない「問題」そのものに合わされている。彼らは同僚・友人といった他人に近いような(少なくとも家族ほど密接ではない)ゆるやかな関係でありながら、その「問題」を共有することで舞台に存在し、それぞれの存在を浮き立たせていくもののように思われた。
もうひとつのゲキバカ『ローヤの休日』は戯曲構成にやや弱さはあるものの、俳優たちの躍動する身体とその高いパフォーマンス能力によってそれを補い、ダイナミズム豊かな作品としていた。この身体と俳優の個別性への信頼もまた、かけがえのない演劇の魅力のひとつだ。
ドラマとは何だろうか?何を生むのだろうか?今回のツアーで、私は何か答えをつかめたか?答えはノーだ。相変わらずわからない。
ただ、言えることは、今回のツアーで観劇した4作品はそれぞれに違うドラマの持つ役割をみせていた。たとえ用いられるモチーフは限りあるものであっても、そこにどのように光を当てるかによって、その印象は大きく異なってくる。私にできたのはかろうじて、こうした作品たちがそれぞれに違う美意識のもとに生まれてきたのだということを感じ、その美しさ、豊かさに触れ、参加者の方に適宜突っ込まれながら、いくらか言葉にすることだけだった。
いつ、どんな時にも演劇が有効である、ということを、私には言うことはできない。私は演劇をそこまで過大評価してはいない。しかし、今回の震災のように、大きな変革期に差し掛かった今なお、ドラマは俳優たちを、観客を突き動かす動機として、未だ機能し続けている。
今回観劇した作品はいずれも大入りであったことは、演劇に期待をかける人がまだまだ居るということを、局所的ながらも示している。そしてもちろん、こうした幸せな作品たちを見て、存分に語り合った私は、またドラマに期待してしまった。
これからもまだまだ幸せな演劇は生まれてくると思う。自分もそのために尽力したいと、強く思った。
谷竜一(第3回) | comments (1015) | trackbacks (0)