観劇ディスカッションブログ

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レポート:田坂哲郎

2008.07.21 Monday | 第2回 > FPAP事務局

「密八」レポート   田坂哲郎

「劇団コーヒー牛乳」第21回公演 下北沢公演第二弾
『密八』 作・演出 柿ノ木 タケヲ

  この芝居について、劇団HPには、こうある。
「鍛え上げられた八人の男優陣が12日間にわたり、『密』 な空間と『蜜』な時間をお届けします。」
密な空間で、八人の男優が演じる芝居だから、「密八」・・・。このタイトルからわかるように、この芝居の主役は役者である。密空間とは、つまりは小劇場空間のことであり、舞台の設定が密室というわけではない。狭い小屋で男が八人汗水たらしてお芝居します、という『好きな人にはたまらない』観劇状況こそが、この芝居の最大の見せ所であるといえる。

  源頼朝・義経の話を下敷きとしたストーリーは非常にわかりやすく、人物の感情も明快だ。「生きるとは何か」というテーマが、そのまま台詞になって現れるほど、この芝居は観客に考えることをさせない。何も考えずただ楽しめる、というのは、エンターテイメントのひとつの正解であると思う。劇団のHPに、「ネオ大衆演劇」という言葉が出てくるが、まさにそのとおり。

 一番ディスカッションで話題になったのは、やはり、役者の肉体、そして殺陣の技術ではないか。あれだけ狭い小屋(シアポケくらい?)で刀をぶんぶん振り回して、舞台装置にも当てず、最前列の観客にもヒヤッとさせることなく、きちんと完成された殺陣を見せている。普段の鍛錬と努力のたまものだろうな、という感じ。

 アンケートが見開き4ページの大作で、かなり細かく作品の出来について聞いていたことも印象的だった。「今後どのような作品を見たいか」という質問欄があり、それはつまり、作家が書きたいものを書くのではなく、観客の見たがっているものを作家が書く、少なくともその可能性があるということだ。良い悪いは別として、かなり作品に対して割り切っている印象を受ける。自分の書きたいものより、観客の望んでいるものを優先する、というのは、なかなか出来ないことだ。一歩間違えれば媚になる。いや、いっそ媚びてでも、という思いがあるかもしれない。もっとも、もともと座付き作家が多ジャンルを描けるタイプの作家で、アンケートはあくまで参考程度なのかもしれないが。アンケートを書いたお客さんには特製缶バッヂをプレゼント。回収にも力を入れている。少しでもお客様の声を聞きたい、ということなのだと思う。

 観客をものすごく大事にしている、ということが観客にも伝わっているのか、客席は「大ファン」で埋まっていたような印象を受けた。暗転の度に拍手が起きるというのは、ちょっと過去の観劇体験では初だった。結成から10年、21公演目にして初の「劇団員のみの公演」だから、普段見に来てくれるお客さんへのサービス公演の意味合いもあったかもしれない。それはたとえば、長すぎる(そしてストーリーに関わらない)物売り口上や、酒場コントの挿入から推測することが出来る。

 最近、大先輩の劇作家さんに、「公演とは、お客さんとの約束を果たしていくことだ」と言われたのだが、ここの劇団はまさに、一回一回、約束をきちんと果たしていった結果としてここに存在しているのだろうと思う。だからこそ、チラシにストーリーが一切触れられていなくても、「密な空間で八人の男優が演じる」と書くだけで、観客は期待して(または安心して)劇場に足を運ぶことが出来るわけだ。
 観客を大事にし、観客と共に成長していきたい、という姿勢は、古いながらも正しい劇団の姿勢を見た気がする。正攻法で攻めている。その思いが劇団内のみではなく、客席にまで溢れている感じがした。ただ、なんつうか、2,3、足りないな、と思う点があって、それがまだどこなのか具体的には言えないのだが、(確実に一ついえるのは、脚本の甘さだろうか。)その足りないな、と思う点は、もしかしたら自分の演劇に対する理想とのギャップかもしれないので、考え続けていきたいところであるなあ。
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レポート:亀井純太郎

2008.07.21 Monday | 第2回 > FPAP事務局

柿喰う客「俺を縛れ!」
王子小劇場
2008/6/27 19:30

事前ミーティングの段階では、破天荒で奔放な作風を想像していたのだが、実際観てみると、確かに破天荒で奔放な作品ではあったが、たとえばその奔放さをかもしだす数カ所あったアドリブのような展開でも、演じる役者の生の表情ではなく演じられる役の生の表情を見せる演出となっており(実際それは台本にきちんと記述してあるということからも)、破天荒な一つ一つが緻密な計算と作り込みによってできあがっていることに衝撃を受けた。
ちゃんと戦略をたてて活動を進めている、と言うようなことを先日の福岡でのパネルディスカッションで主宰の中屋敷氏が言っていたが、その几帳面さは作品世界と無縁ではないと感じた。毎回大勢の客演を迎えて時には四十人を超える規模の公演をうつこともあるらしく、今回の十八人というのは劇団としては中規模の公演らしいが、多数の客演を迎えても劇団のカラーが褪せず、むしろ強烈な色を発しているところに演出家の並々ならない力量を感じた。
戯曲構成も考えられている。筋だけを取り出すと、「九代将軍徳川家重が、諸大名のキャラを設定する"キャラ令"を定めた。藩の財政が破綻して苦しい生活を送りながらもひたすらに将軍への忠節を誓い、お上に従っていれば悪いようにはならないと信じている田舎大名・瀬戸際切羽詰丸には"裏切り大名"のキャラが与えられ、『お上の意向に従えばお上を裏切ることになる。お上を裏切らなければお上の意向に背く』という切羽詰まった状況に追い込まれるうちに、だんだん裏切り大名としてのキャラに目覚めていき……」という、なんというか和風歴史ファンタジー的な調子で、どちらかと言えばB級っぽいのであるが、芝居全体の出来上がりは決してそうではなく、知的エンタテインメントといった薫りすら漂わせている。冒頭と終末にちょっとしたシーン(いかにも時代劇パロディ風の芝居を演じて「この一連の流れ、本編とは関係ありません」としめる)を配置して本編を挟んでみたり、先ほども触れた、物語が盛り上がってきたところで唐突に役の素を見せるような場面を入れたり、一人の役者が芝居自体をぶちこわすかのような勢いで突然暴れ出したり(もちろんそのシーンも全て段取りが決まっており、偶発性に任せた作りにはなっていない。しかも決して「段取り」にならないように、二重三重の安全弁を用意した上である程度の幅を持たせるという用意周到ぶり!)、全員で歌い出したり、「このお芝居のテーマはこれです」風の語りを登場人物がしてみたり、上手い表現がおもいつかないが、例えば三原監督時代の西鉄ライオンズは、大下やら中西やら豊田やらが好きに暴れ回って、稲尾や河村が強引に力でねじ伏せて……というわけではなく、守備のフォーメーションからサインからかなり組織的なことをやっていたことを知った時と同種の驚き、といったところだろうか……。中屋敷氏は、自称も他称も「演劇オタク」ということだが、これまでの演劇的資産をとても上手く運用して自分の世界を創り上げており、それも「演劇は何でもあり」と言った盲目的な取り組み方でなく、「演劇は何であって何でないか」を見極めて創作に取り組んでいるように思える。それも「どうです、僕たち頭良いでしょ?」みたいな嫌みな感じではなく、B級っぽかったり、一見感覚任せの乱暴な作風にみえたり、なによりも、「過去の演劇的資産」を全く知らない、共通言語として持たない観客でも純粋にエンタテインメントとし
て楽しめる作品となっていて、一部の「演劇オタク」の嗜好品にとどまらない、幅広い層に受け入れられる劇団だと思った。
ディスカッションでも、全体的に好意的な意見が目立った。作品の評価以外にも、これだけの事が出来る役者をこれだけの人数そろえることが出来る東京の演劇環境、自分の劇団に迎えるならどの役者が欲しいか、といった点に話が及んだ。

■作・演出
中屋敷法仁

■キャスト
高木エルム
七味まゆ味
コロ
玉置玲央
本郷剛史
中屋敷法仁
(以上、柿喰う客)
石橋宙男
村上誠基
浅見臣樹
梨澤慧以子
佐野功
花戸祐介
森桃子
川畑舞香
佐藤みゆき(こゆび侍)
こいけけいこ(リュカ.)
丸川敬之(花組芝居)
堀越涼(花組芝居)

■スタッフ
舞台監督:藤本志穂(うなぎ計画)
舞台美術:世多九三
音響プラン:上野雅(SoundCube)
音響オペレーション:平井隆史
照明:富山貴之
殺陣:佐野功
衣装:浅利ねこ(劇団銀石)
演出助手:加藤槙梨子 野田裕貴
映像:高橋希望
記録写真:渡辺佳代
記録映像:山川享平
宣伝美術:山下浩介
制作補佐:清水建志 吉澤和泉
制作:田中沙織
OTHER MEMBER:半澤敦史 深谷由梨香
協力:にしすがも創造舎
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レポート:村上聡

2008.07.21 Monday | 第2回 > FPAP事務局

観劇デイスカッションツアーレポート
担当公演:青年団『眠れない夜なんてない』

村上 聡(劇団 爆走蝸牛)

今作品の当日パンフレットには、作・演出の平田オリザ氏の文章が2つ載せられている。
「演出ノート」には『老い』ではなく『衰え』を描くという今回の試み、「創作ノート」には『ひきこもり』と『日本を降りる』というイメージが書かれている。

脚本についての考察

舞台はマレーシアの日本人向け定住型リゾート。南国でありながらも標高が高い場所にあり快適な気候。ロビーの奥には各人のコテージがある他、レストランやプール、テニスコートなどがあり、常駐の日本人職員がケアしてくれるという環境の中で、長期の滞在者達に格別にその生活を楽しんでいる様子は見られない。現地の言葉を覚えて積極的に地域に溶け込むこともなく、【日本人同士で肩を寄せ合うように暮らしている。】しかし、彼らは決して日本に帰ろうとはしない。帰れないのではなく、帰らない。
それは、単純に日本で嫌な目にあったからかもしれない。しかし登場人物から感じるのは、日本に嫌悪感を抱いているという事だ。はっきりとここが嫌いということはできない。感覚的に、潜在意識的に抱く嫌悪感。
【バンコクなどで引きこもりのような生活をする若者たちを「そとこもり」と呼ぶ】。ひきこもりが世間から降りるという状況であるならば、そとこもりは日本という国からも降りている状況で、それは【定年移住などで海外に暮らす日本のお年寄りたちにも…多少はある感覚なのではないだろうか。】
しかしこの感覚を一番感じているのは、平田氏自身ではないか。
作品には現地に愛人を作るビジネスマン、海外旅行でハメを外すカップルといった日本人らしい日本人の姿が描かれている。
そして十三歳で世界一周の旅に出ることを決めたころ【たしかに日本を降りようとしていた】という氏。学生時代には1年間の韓国留学も経験。その後書き上げた代表作の一つ「ソウル市民三部作」のパンフレットには下記の記述がある。『私は、その頃、いつも「亡びるね」と吐き捨てるように呟きながら、戯曲を書いていたような気がします。当時の日本は右肩上がりの株価と地価に翻弄され、その繁栄が永久に続くものだと多くの人が信じている時代でした。…1909年は…日本と日本人が、驕り高ぶり、その勢いをかって朝鮮半島を飲み込もうとしていた時代です。私はその時代の日本人の姿を描写することで、1980年代末の世相を描こうとしたのだと思います。』
それはただ時代を客観的に表現しようとしたに過ぎないかも知れない。しかし今作で現地取材を避け、その理由を【そこで得た知識に囚われて想像力が及ばなくなってしまうから。】と語り、「想像で書く」と語る平田氏。今作はマレーシアの日本人定住者の姿を描写することで、平田氏自身の思いを描いたものではないだろうか。

作劇についての考察

セミリタイアの入居者・磯崎はやってくる予定の娘二人を待ちかねてそわそわしている。
夫が現役のビジネスマンである杉原千寿子の元には学生時代の同級生・中岡直枝とその夫が短期滞在でこのリゾートの下見にやってくる。古くからいる入居者、短期滞在の観光カップル、DVDを配達にくる便利屋の青年と、登場人物が会話を重ね物語は進んでいく。
平田氏はこの作品のアフタートークで以下の様に語っている。「基本的に日本人には対話はない。演劇は基本的に対話によって成り立っているがそれは無理で、だから日本人には近代演劇は無理だということを20代のある日に絶望した。ではそれをどうすればいいかというのが自分の出発点になっていて、異なる世代や文化背景を持っている人達が一瞬だけ出会って、2,3分なら対話できるんじゃないかということで登場人物の出入りをできるだけ多くして、不自然なんだけど、できるだけお客さんには感じ取らせないように技巧を凝らして、対話の瞬間を作っていく。」
今作では人の出入りが多いロビーを舞台に、いろいろな組み合わせで対話がなされ、観客に自然な流れで人物関係や心情が伝えられる。こうした手法はその著書「演劇入門」等にも表わされている。
やがて、「磯崎」は生死に関わる病にかかっており娘達を呼んだのはその為だという事実が露見する。この「磯崎は病である」という状況は物語中盤まで具体的には表面化しない。もちろん、もう一度この芝居を観れば役者はそういう芝居をしているのだろうが、初見では気づかない。こうした手法も、前述「演劇入門」にある通りである。場所や人物の設定を説明的に表現せず、芝居の流れの中でさりげなく表されることで、この一見なんの不満もなさそうな「磯崎家」がかかえる大いなる問題が、観客に痛烈に伝わる。
作中ではさらに、便利屋の青年が日本では「ひきこもり」だったこと、観光カップルが離婚記念旅行だということ、千寿子は昔、直枝にいじめられていたことなどのエピソードが露見していく。千寿子は便利屋の青年と関係をもっている風でもあり、直枝をこのリゾートに来させないと強く語った後、直枝に「自分の夫に現地の愛人がいる」と嘆いてみせる。直枝はこの話を聞いた後、乗り気だったこのリゾートへの移住に消極的になる。
平田氏はこの公演のアフタートークで「夫の愛人の話は作り話か本当か」との質問に次のように答える。「真相はどっちかは僕にも分からない。俳優にはどちらにもみえるように言っている。会場でも浮気をしていると思った人、またしていないと思った人、多分どっちにも思えている人が多いんでしょう。いくつかセリフを足したり、引いたりしているんです。一番多くの人がどちらでも見えるようにつくっている。」つまり、この作品に正解はないのである。答えは観客のそれぞれの受け止め方にゆだねられている。
「普通お芝居ではそういう作り方をしない。とくに新劇の場合にはある心理状態があってそれに合わせて発話をする。見える側の立場で演技を決めることは基本的になく、私たち独特の作り方なんです。」
かつて「役者は駒」と語った平田氏ならではの作劇スタイルだが、要求される役者の能力が高くないと成立はしない。役者の能力の高さは例えば、「衰え」を表わすために言いよどみ、言い間違いを台詞に取り入れているが、それを役者の素の部分を連想させず、登場人物の本当の言いよどみや言い間違いに思わせる能力からも伺える。青年団の芝居の大きな特徴と言われる、ぼそぼそとした喋りしかり、同時多発会話が起こるシーンでの絶妙なバランスしかりである。
「小金持ちの老人に着目したきっかけは」という質問には、自分が中産階級より上のアッパー階級で、労働者よ団結せよといっても誰も信じないと述べた後、下記の様に語る。
「貧乏の人がつらいのは当たり前、社会的な問題を描くのではなく、人間の精神の揺れ動きを描くのが演劇と思う。」「一見なんも不満のない人達にも寂しさがある処にドラマが始まる。」「当たり前の人達が犯した罪とか、当たり前の人達がもつ哀しさとか寂しさとかを描くのが、劇作家の仕事だと思っている。」
この作品全体を通して当たり前の人達のもつ哀しさ、寂しさが描かれているが、その一つがこの磯崎家の話である。病の事を聞いた娘二人は激しく動揺するが、時が経つにつれ、心の平穏を取り戻していく(もちろん完全にではないが)。ただ悲観するだけでなく事実は事実として受け止め、これからどうするかを考えていく姿がリアルな人間の生活を描いている。

最後に

会場に入ると、南国のリゾートが広がっていた。具象と抽象がバランスよく配置され、タッパのある舞台を有効的に活用した、美しく、機能的で、リアルな舞台装置。その極上の空間で経験を積んだ能力の高い役者陣が、これまで培ってきた「現代口語演劇理論」の手法を惜しげもなく活用し、「他者からみたら不満がなさそうな人たちの真相」を演じ、多くのエピソードが観る人それぞれの心の琴線に触れ、ある人には切実感をつき、それぞれに考えさせられる様に仕上げられている。
これは、45歳になった平田オリザ氏と団員の成熟した青年団が、これまで追及し作り上げてきた「現代口語演劇」の現時点での集大成である。
以上
当日パンフ、劇団HP他、HP(アフタートークの内容含む)より引用、要約、参照
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レポート:日下部信

2008.07.21 Monday | 第2回 > FPAP事務局

2008年観劇ディスカッションツアー

○はじめに
 芝居を始めた二十歳の頃から、東京に出かけお芝居を観るということはやってきた。しかし、今回は、福岡や熊本の劇作家・演出家の人たちと一緒に東京で観劇し、観たそのお芝居についてすぐにディスカッションするという企画。いったいどんな空気で、どんな展開になるのか、予想がつかず、行く前から非常にわくわくしていた。と同時に、芝居を観て、私自身のこれからの演劇活動にどういう変化があるのだろうか、そのようなものは過度の期待なのだろうか、と自問を繰り返していた。

二週間前の事前打ち合わせでは、観劇予定の公演のデータ(キャスト・スタッフ・劇団結成から何年目・活動実績など)を確認し、懇親会で参加メンバーの交流も図れていたため、二泊三日のツアーはある程度、伸びやかに意見・論議出来たように思う。びっちりスケジュールが組まれ、ディスカッションする時間もそれぞれ1時間半から2時間設定されていたので、予想以上にハードな三日間になった。「観て・考えて・発言する」「また観て・考えて・意見を述べる」の有意義な三日間だった。

 観劇したのは「柿喰う客」「新国立劇場・シリーズ同時代」「劇団コーヒー牛乳」「青年団」の公演。4本のうち、すでに高い評価を受けているカンパニー(劇作家・演出家)の公演が2つ、小劇場でいま勢いがあるカンパニーの公演が2つあったように思う。この2つのタイプを交互に観ることが出来て、精神がずっと重たいままでもなく、芝居を気楽に楽しんでいるだけでもなく、1本1本が、毎回いろんなうねりを持ってこちらの心に飛び込んできた。ここ数年でも群を抜いて刺激的な観劇となった。いづれも自分が考え抜いて生み出した作品(劇作)を、独自の手法で丁寧に作っている(演出)。観ただけで、自分自身の創作エネルギーが充電されてゆくのを感じた。芝居づくりの試行錯誤を、よりタフな精神で続けてゆくしかない、そんな若い新鮮な気持ちを呼び覚ませてもらえる機会となった。

○柿喰う客「俺を縛れ!」
 妄想エンターテイメントと称される芝居は一体どういうものなんだろうと興味深々で観た。いきなりべたな立ち回り、わざとぐだぐだ感を出し、冒頭終わりで「本編とは関係ありません」と観客を煙に巻く。そしてスピーディーでかっこいい映像と音楽。劇空間にどっぷり引きづり込まれる感覚が心地よかった。
江戸中期の徳川吉宗の時代が終わり、世継ぎ争いで田舎大名たちが戦国時代さながらに再び天下を狙って動き出す話。しかし大河ドラマ的テイストではなく、現代色を豊富に織り交ぜた作品。「時代劇妄想ファンタジー」と言えそう。老中やら大奥など道具立てとしての時代用語はあるものの、描き出される世界は、マンガ的でかなり軽やかなテイストだった。登場人物名からして「瀬戸際切羽詰丸(せとぎわせっぱつまる)」「好感堂鷹目(こうかんどうたかめ)」「浦見深左衛門(うらみふかざえもん)」であるから、楽しさいっぱいだった。

戯曲の文体の軽やかさに支えられながら、物語はとても軽快に進み、それでいて演技の形や人物の居所がきっちりと決まる。何よりみんながみんな、かなり早いテンポでせりふを喋るが、一言もかまないし、唾がとばない。本当に唾がとばない。これは実はものすごく高い技術。ギャグの応酬や、演技と照明・音響のコンビネーションも見事に成立していて、ほぼ飽きることがなかった。ただ、前半40分ほど続くそれぞれのキャラ紹介のような展開は、10分ほど短くてもいいのかなとは思った。そのあと展開される「裏切り」からはまた一気に入り込めた。最後に用意されていた「演劇の解体」は、50年代以降使われてきた手法だろうが、最後ぐちゃぐちゃになっていく感じはおもいきりが良くて、かつて見た寺山修司の作品を思い出し、心がざわざわ躍った。演劇にしか出来ないことを模索している感じがいい。予定調和ではなく、役者がいきなり暴走を始めた装いになっていたので、解体されてゆく芝居というより、破壊する演劇に近かった。

一番印象的だったのは、劇作家・演出家の「中屋敷法仁」氏のイメージ力と、それを実現させる演出力。きっちりと演出家が自身の独特な世界を作っている。役者の個性や演技力も生かしつつ、しかし、全て演出家が責任をとっている。これは大変な労働力だし、限られた時間で作っていくだけの演出の腕力とスピードも必要だと思う。画家の役割の演出家が、役者という多彩な絵の具を思う存分使っていた。脚本家の脳内から溢れ出る劇世界を、自由奔放カンバスに描いたと言える。

そして盛んに芝居中で叫ばれる「キャラ、キャラ」の言葉が今でも耳に残っている。個性がどんなものだかはっきりと自認しにくい時代に、本当に色濃い人物たちを見られるだけでも爽快な気分がした。しかし同時に、この閉塞感いっぱいの世の中で一体どうやって生きていけばいいのか自問自答し、遊戯を続けながらも悩み続ける作者の心が垣間見える気がした。


○新国立劇場「混じりあうこと、消えること」

今年、岸田賞を受賞した「前田司郎」氏の戯曲を、「遊◎機械/全自動シアター」(1983〜2002)でおなじみの「白井晃」氏が演出するという新国立劇場主催のコラボレーション企画。

 <・・・男女4人が集う不思議な夢のような物語。「家族」をテーマに独特な切り口でゆるやかに優しく深くその在り方を描く。>

いったいどんな話なんだろうと事前に調べてみると、新国立劇場のホームページには、上記のような簡単なあらすじしか載っていなかった。たったこれだけ?しかも、意味があんまりよく分からないなぁと最初は思った。さらに、芝居は考える道具だと述べ、日常の淡々とした情感の隙間に芸術的な仕掛けを施す劇作家と、古典劇から音楽劇まで幅広い芝居づくりでエンターテイメントする力に溢れる演出家の組み合わせ。どうも作風や持ち味が違い過ぎるこの組み合わせ。期待半分、不安半分といった気持ちで公演を待っていた。

 90分ほどの上演。あえて言語化すれば、まさに上記のあらすじのような芝居だった。舞台は、公園。ジャングルジムやブランコや滑り台など遊具が置かれ、ベンチ、砂場、街灯がある。舞台美術は、シンプルではあるがとても美しい絵画を見てるよう。美術家「松井るみ」氏は、決して舞台美術を華美に主張せず、人物たちや言葉に出来ない空気感が、ふわっと沸き立つような舞台を用意していた。

 さて、芝居の中身となると、何ともコメントする気分になれない。なぜなら、この戯曲の表現しているものは、世界のあらゆるものが解明され、何から何まで「切り分けられていくこと」への疑いや問いかけを表現しているからだ。こうやってテーマ的なことを決め付けて言うのもハバカラレル。生と死、親と子、男と女、孤独と家族など、その境界線って一体何なのか、境界線がなければいけないのか、みたいなことを作者が考え、試みた芝居なのではないだろうか。芝居のタイトルは見事にその意味合いを表していたのだ。

 理屈で語りにくい。けれど感じたことだけ述べたい。まず妻らしき女のセリフに、水底町(みずぞこまち)という言葉が出てきて、この場所は全てが水に浸かっている場所に思えた。人間の女性の体内で「卵子」が生まれる時、卵巣内に親指の爪ぐらいの泉があり、そこに卵子が浮かびあがってくるという話を医者から聞いたことがあるが、ここでおこなわれている家族劇らしきものは、生命の根源と直結している世界なのかもしれないと思った。人間と水は、切り離すことが出来ないモチーフ。舞台の上部を見上げれば、水の中から太陽(もしくは月)を見上げるかのような、ぼわーんとした光が実際に見える。このような舞台美術を見たことがなかったので、よけいにその光景が目に焼きついている。

 90分ほどの芝居は、つねに人間の寂しさで満ち溢れていた。いきなり夫らしき男が登場するが、喪服を着ている。チェーホフ作「かもめ」のマーシャさながら、意味深だ。芝居を見ていると、どうやら子どもを失った夫婦の物語と、私には見えてきた。ストーリは意味が全然分からない、会話のやりとりもよく分からない。けれど、とても心が切なくなった。それでいいのかもしれない。見たことのない芝居を見られたのだから。

 アフタートーク(ポストトーク?)は1時間を越え、作品について作り手の思いが充分わかる劇作家と演出家の対話だった。今回はこのアフタートークとセットだったことは大変お得だったかもしれない。公演だけを観て、たっぷり考え尽くすことが出来たかと言えば、ちょっと自信がない。このアフタートークを通じて、劇作家の思考やこだわりに教えられることがあった。「演劇は考えるための道具」という考え方や「セリフでの会話が人物たちの関係以外のものを現す」表現方法など。自分でやりたいとは思わないが(やれるものでもないが)、演劇を思考する上では貴重な経験をした。そして私に影響を与えてくれた点と言えば、演出家・白井晃氏の懐の深い作品の受け止め方と、舞台演出の見せ方について語られる内容だった。劇作家の意思をとても尊重し、苦悶しながら芝居を演出していった話に、シンパシーを覚える。また、こういう大胆なコンビを組ませる企画を、新国立劇場がやるということが面白い。

○劇団コーヒ牛乳「密八」

劇団名もちょっと変わっているし、題名の「密八」も一体なんだろうと思っていた。八人の男で密度の高い芝居をするから、みたいなことで付けたとパンフレットに書かれていた。作品の中身と関係なく題名がつけられる、その無邪気さ、その若さに嫉妬する。芝居も、男八人がオフオフシアターのあの狭い舞台を縦横無尽に駆け巡るドタバタ芝居。けれど決してうるさすぎず、ちゃんと空間づくりが分かっている人たちの集まりだと思った。

 ストーリーは実はあまりよく覚えていない。黒澤映画「七人の侍」を彷彿とさせる、侍ものだった。黒の軍団と赤の軍団の対決など、立ち回りがたくさん出てきた。しかし、よく工夫されていて、どれひとつ見ても同じような場面がない。スローモーションを使ってみたり、人形劇形式でやってみたり、演出家はエンターテイメントを意識して取り組んでいたと思う。

 これを観る前の時点で、すでに観た2本の芝居が充分論議できるクオリティの高い芝居だったし、最終日に観る平田オリザ氏の新作公演も当然何か面白い芝居になっているだろうし、ここらで「う〜ん、だめやったねこの芝居」となってくれると、ちょっとほっとするな、と思っていた。そんな失礼極まりないネガティブな期待をしていた。その思いは大きく裏切られ、心の底から反省した。それほど、劇団コーヒー牛乳の芝居は爽快で面白かった。本当に躍動感に満ちた演技、息のあった音響効果、回路数が少ない中で最大の効果を上げていた照明効果。三日月を縦に突き刺したような舞台美術も、芝居にフィットしていた。

彼らは十年近くやってきた経歴を持っているのに、芝居にかける熱意や頑張りの見せ方がとても高い。狭い舞台空間を使って、可能な限り広い空間に仕立てていて、成功していたと思う。それはミュージカル「ライオンキング」のあの広いアフリカの大地を彷彿とさせてくれた。いまの福岡を見渡した時に、ここまで芝居熱とハイテンションを保っている劇団は、わずか数えるばかりじゃないだろうか。そして何より、役者がそれぞれかっこいい。私自身、演出家なので役者を見る目はあると思っているが、ここの役者たちは、笑いのセンスもあり、自分の立ち姿の魅せ方や芝居の立ち位置の取り方にも優れている。ほかにどんな芝居をやっているのか知りたくなった。次の公演も出来れば観に行って、また彼らに出会ってみたいと思わせるほどだった。







○青年団「眠れない夜はない」

 青年団の芝居をようやく観ることが出来た。4本のうちで一番私の期待も高く、待ちに待った公演だった。全然派手な舞台演出はないし、音楽もかからない。なのに、私の心の奥底にずんずんと入ってきた。

舞台は、マレーシアの日本人向け永住施設。退職や仕事の都合でマレーシアに移住してきた人たちの生活の様子を描き出している。劇場に入るとすぐに、南国のリゾートホテルのロビーと見間違えるかのような、華やかな舞台セットが目に飛び込んできた。セットを見ているだけで、ここでいろんな人たちが出会うんだろうな、いろんなドラマが起こるんだろうな、と想像させられ、観る前からリラックスした雰囲気になれた。

 何気なく芝居は始まる。そしてゆっくりと劇世界へ引っ張り込まれる。作品は、いろんな立場・境遇の人物を配置している。古くから入居している高齢者、夫婦で入居している高齢者と今日日本からやってきた娘たち、現役ビジネスマンの夫婦、入居を考え見学に来た夫婦(妻がすでに入居している女性と同級生)、短期的に滞在している若い夫婦、日本になじめず海外で引きこもり(外こもり)している青年、施設の職員、業者ガイド。何らかの理由で日本を去った人たちがそこかしこにいた。それぞれの人物が人間につきまとう悩みや問題を抱えて生きている。そのことが段階を追ってじわじわと分かってくる。二時間の上演中、人間の「生・老・病・死」の問題について、必ず観ているこちら側の、感情を呼び覚まし、共感させられてしまう。夫婦のことや、親の病気、引きこもり・・・。虚構の世界なのに、私の心の中では極めて現実となる。

 さらに、マレーシアのゴムの話、日本が戦争で占領していた頃の話など、周囲の状況や歴史も散りばめられ、話の縦糸・横糸がしっかりと張られていた。これもすべて「平田オリザ」氏の巧みな劇作術・演出術なのか。稽古場でどのような試みがなされているんだろうと気にもなった。実は青年団のお芝居を生で観るのは初めてだった。やはり舞台はビデオで見ても細かい部分までは分からない。本当によく考え抜かれたお芝居を観ることが出来て、うまく言葉にはならないが、これからの自分の活動に良い刺激をもらった。こんな悠長な言葉では、到底まとまらないほどの刺激を得たと思っている。


○まとめ

 福岡だけで芝居をやっていると、何が一番のハンディになるかと言えば、それは徹底して自分オリジナルの芝居を作り出せない点だ。「これはほかにはない芝居だ、手法だ、」というものが少なすぎる。もしかしたら、あるのかもしれないが、それがすぐに安定したクオリティーになって、話題性や評価の対象になりにくい環境があると思う。もしかしたら先端にあるような演劇を求めていない土地かもしれない。演劇環境の問題は、他に譲るとして、この観劇ディスカッションツアーで観た芝居は、いづれも唯一無二の手法に満ちており、演劇ならでは、劇場ならでは、の表現行為だったということだ。

 4本の芝居を観るにつれ、次第に私の言葉は少なくなってしまった。それは、東京の
演劇シーンの一部を覗き、その差を見せつけられる結果に終わったということだ。10
倍人口が違うということは、10倍競争力がある。しかも、10倍励みになる人や刺激
も多いということ。そのことを、案外分かっているようで分かっていなかった。

 ただ、自分の育った町で演劇を続けることは、間違ってはいない。そしてクオリティが保証出来る芝居を作り続けることだって出来るはずだ。決して東京の要素を何から何まで意識し取り入れなくてもいい。試行錯誤しながらやればいいと思ったことも事実だ。ただし、自分ならではの表現方法、はっきりとした特徴を打ち出し、定着させてゆくまでに時間がかかる。弱い気持ちでは決して続けることさえ出来ない世界。今日も明日もあさっても稽古場に通う生活をする中で、より演劇を考え、より何が面白いかを考え、より自分の演劇を形作っていこうと決意を新たにした東京の三日間だった。

最後に、お世話下さったFPAPのスタッフの皆さん、演目を選んで頂いたコーディネーターの高野しのぶさん、アゴラ劇場にわざわざ会いに来て下さった皆さん、そして三日間、一緒に観劇してディスカッション出来た参加メンバーのみんなに感謝します。新作づくりに励みたいと思います。
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